前回の続き。
ただの読書メモである。長い。
まずは用語整理
- メリトクラシー:能力主義。ヤングが著した『メリトクラシーの法則』(1958) で創られた用語。
- テクノクラート:1930年代のアメリカで流行した技術主義的、改良主義的社会経済思想。
- 摂理主義:Providentialism(プロビデンシャリズム)とも。歴史的および宗教的な文脈で用いられる概念で、すべての出来事や現象が神の摂理(神の計画や意図)によって起こるとする信念や考え方。人間の行動や意志も神の摂理の一部として捉えられ、人々は神の計画を実現するための手段とみなされることが多い。
- コミュニタリズム:サンデル教授をはじめとする哲学者による主張が位置するイデオロギーに対応するラベル。サンデル教授は ”コミュニタリアン” ということになる。大筋ではリベラリズムと変わらないが、能力主義や新自由主義に対して「結局は格差の再生産を助長している」と懐疑的な立場を取る。
- 共通善:サンデル教授が掲げる、社会全体が共有する価値や目標のこと。これを強調することで、現代社会の個人主義や競争主義に対する批判を展開している。キーワードは例えば、社会的連帯と絆、共同体の価値、公共の議論と参与、倫理的な責任。
登場する哲学者の整理
- ロールズ: 福祉国家リベラリズム(あるいは平等主義リベラリズム)を主張。1971年に正義論を著した。力量と才能によって所得の配分が決まることは、生来の身分階級によって所得の配分が決定されるのと同等に正義にもとると説いた。サンデル博士は、この主張に登場する「運による平等主義」では、その理念を実現するために必要な共同体意識を生み出せないという弱点があると批判している。
- ハイエク: 自由市場リベラリズムの擁護者。教師とファンドマネージャーの給与が大きく異なるのは彼らの努力や善性とは全く関係がない運によるものであり、あくまで市場における価値を反映したものでしかないと説明する。ロールズの論とともに「経済的報酬は正義を反映しない」という点で共通だが、そのうえで彼は「政府による分配では効率を損ねるため、功績の反映たる不平等を再分配すべきではない」と主張する。
- ヤング:最も有名な著作が1958年に発表された風刺小説『メリトクラシーの勃興(The Rise of the Meritocracy)』。メリトクラシーがもたらす潜在的な危険性を予見し、これが過度に推進されることで社会がどのように歪むかを鋭く批判した。
本編
1章 - 政治と能力主義の概説
アメリカの政治舞台に興味のある人でないと読み進めるにはなかなか骨が折れる。
バラク・オバマからヒラリー・クリントンに受け継がれた能力主義のレトリックはポピュリストの反発により敗北した。本書が腐心するポイントのひとつは、この事象が発生したことに程度納得のいく説明を付与することだ。
この後の章でも繰り返し、この選挙戦でトランプは何十回発言した、オバマはこの手の発言が三倍増加した、といった説明が続く。
政治哲学について扱うので、当然のことながら出たばかりの時に読むのが一番面白い。トランプが当選したのが2017年。それをコミュニタリアンの立場から総括した本書が日本市場に出回ったのが2021年4月。文庫本が出たのが2023年で、それを私が手に取ったのが2024年5月。かなり遅れて解説書を読むが、後の祭りも良いとこだ。
2章 - 救済をめぐる神学の歴史
特に第二章で触れられている神学論争の歴史については辟易とした。
救済の主体は神であるが、現世での善行により救済されるかが決定されるべきか否か。神の完全性とはいったい…… そんなことは極めてどうでも良い。
もし仮に神が存在するとすれば、我々や世界のことを救済や懲罰の対象ではなくてただの実験対象として観察しているのではないか。シャーレの上で増えたり減ったりするバクテリアと同じような。
3章 - あなたはジューシーチキンに値するか?
出世と責任のレトリックをめぐるこの章では、上司をランダムに選出したほうが良いというイグ・ノーベル賞をとった研究が自然と思い出された。
オバマが演説で頻繁に用いた「あなたはそれに値するのです」という言い回しと、能力主義との結びつきについて説明している。
途中の「〜〜に値する」のバリエーションの紹介の中で登場した下記のキャッチコピーには思わず笑ってしまった。
あなたはもっとジューシーなチキンに値する
これが特定の商品ではなくレシピの見出しだというから、本当に流行ったイディオムということになる。
高級車やラグジュアリーなホテルの広告ならいかにもという感じだが、ジューシーなチキンまでもが能力に見合った「報酬」となるとやるせない。
能力主義が願望の対象だとすれば、そこからこぼれ落ちた人はいつでも社会システムを非難できる。だが、能力主義が事実だとすれば、うまくいかない人は自責の念に駆られることになる。
三章を締めくくるこの文が端的に、今日我々が抱える生きづらさを的確に表現していそうだ。
4章 - 学歴偏重主義
サンデル教授は、ポピュリスト的感性をもつ作家のトマス・フランクの批判に耳を傾けている。
中でも「成功している側が申し渡す道徳的判決」という表現には含蓄がある。
洞察力や道徳的人格を含む政治的判断能力と、標準テストで高得点を取り、名門大学に合格する能力とは、ほとんど関係がないのだ。
この点、日本は世襲が殆どの貴族主義(アリストクラシー)状態であるので、まだアメリカのほうが遥かにマシだと思ってしまったり。
これから30年間で日本も後を追うように政治家が名門卒ばかりになるのだろうか。そして、それに対する不平等感が非難を呼ぶような分断された社会構造になっていくのか…… いや、一億総中流とは過去の話、既に立派に分断されつつあるか。
5章 - 能力主義への批判の歴史
ようやく核心に迫る問い、すなわち「能力主義は正義か?」に入っていく。ここに辿り着く頃には歴史の講義でかなり疲れているのだが、更に哲学史の説明が展開される。
上にあげたロールズやハイエクを参照しながら、自由市場リベラリズムや福祉国家リベラリズムへの部分的な同意や、不十分だとする点への反論を行っている。
現代哲学の厄介な点は、これに至る歴史を理解しないとその思想自体を十分に咀嚼できないところだ。
6章 - 教育格差の固定化
序章で触れられた教育機会の格差問題に再度触れている。
ここでもサンデル教授は「能力主義の毒」を低減させるような施策の案を挙げている。例えば、大学受験は成績下位を足切りにして、他は全部抽選で決めてしまえといったもの。
もし仮に自身の自治体における選挙でそれがメインイシューに上がったとして、自分は素直に賛成できるだろうか?
それともう一つ。自分の人生を振り返った時、学位はどのように有利に働いていただろう。
札幌の小さなWeb制作会社に就職した際はどちらかというと、研究室や部活のホームページを作っていたり、自身のブログをWordPressで作っていた経験が評価された。
土木工学専攻の学位については、 「まぁ真面目なやつであろう」ぐらいだろうか。
しかしそうした「自力で得た」と思えるような経験すらも、自身のPCを持てて、大学に通わせてもらっていたお 陰であることは間違いない。
そして当時の経済状況を振り返るに、旭川から遠く離れて奨学金無しで大学に通わせてもらえ、仕送りまでついていたのはこの上なくラッキーだったと断言できる。
今となっては「大学はどちらですか」といった旨の質問は避けるようにしているが、学生時代の話で盛り上がった時などはつい口を突いて出そうになる。
「最高学府を出る諸君は、国のため社会のために身を尽くすのが当然の責務です」
うっすらこびりつく学歴についての意識は、おそらく、学部2年の都市景観論の講義での一言が呪いのように効いているせいな気がしてらない。
社会に出て10年以上経つ。
受け取った以上のものを社会に還せたと胸を張って言えるような日は来るんだろうか…… などと素朴に思ってしまう程度には、目的意識のない日々を過ごしてきた。
7章 - コミュニティへの貢献
ここ数年、所属する企業以外へのコミュニティに対して貢献できていない。一方で沖縄に居を構えたことで、沖縄地域の何かにコミットしたいというモヤモヤした気持ちだけは育っていっている。
例えば技術的なコミュニティはどうだろう。
先日沖縄で開催された RubyKaigi は刺激的であったものの、Rubyを書くことはあくまで自分にとって所属企業へ貢献する一手段に過ぎないと感じている。
自身のスキルが直接役立ちそうな話題であれば、デザインのコミュニティ。より社会的に重大な問題であれば例えば、子供の貧困率やシングルマザーの困窮など福祉寄りの活動。
おそらくはその掛け算で取り組むのが理想だが、そんなコミュニティが都合よく見つかりはしない。
ただ、そうした課題に取り組んでいるような人と繋がりを持てれば。より自身のことを赦せるようになるのかもしれない。
おわり。読み終わった後も色々と考えさせられ、大変に疲れてしまった。
何年か寝かせてまた読むのが良さそうだ。