仕事で沖縄の技術カンファレンス “Hackers Champloo”に参加した。私もいよいよ沖縄のエンジニアとして染まってきたなという実感がある。
とにかく色んなポイントがちょっとずつユルくて、手作り感と温かみのあるカンファレンスであった。
今年のトピックはみなさん、「生成AIを全社適用してみた」的な話のオンパレードである。例えば下記のようなもの。
- 生成AIはデータサイエンティストの働き方をどう変えたのか
- 開発と管理の視点で最新AI利活用状況を紹介
- AIコーディングエージェント導入とその後――現場で見えた効果と課題
- AIに書かせ、人で磨き、チームで回す仕様駆動開発
こうやってカンファレンスに出てみると、目新しいものがしばらく生まれていないWeb業界に、黎明期だった15年前以来の活気が戻っているのを感じている。
が、実は周囲を見渡すと最近、「ついていけないかも」とか「もう生成AI飽きてきた」とか「大量に出てくるコードに疲れた」なんて言う人もちらほら出てきた。中には、「生成AIを使っているとコード書けなくなってくる」なんかも。
どの意見も一定頷ける部分もあるのだが、その一方で「みんなもっと触ってみたらいいじゃん」とも感じている。
そもそも自身の本分がエンジニアリングでは無いということを薄々思っていて、それこそいわゆる「いい加減な開発者」であると自覚している。なんというか、「物事が動くその裏側の仕組みに思いを馳せる」のがエンジニアに求められる資質だと考えるのだが、私の中心にそれがさっぱりない。ソフトウェアエンジニアを名乗りながら情報工学の基礎もないし、ネットワークやCPUなど低レイヤーのことも真剣に勉強したことがない。そんなわけで、真にエンジニアリングに取り組んでいる人たちには頭があがらないのだ。
そんな私からすると「何か動くもの」が出てくるのが早ければ早いほど楽しく、その品質にはあまり興味が湧かないのである。もっとも、職場でそんなことはおくびも出さないように気をつけてはいるのだが、いつかボロが出るのでは無いかと内心ヒヤヒヤしている。
さて、周囲で活躍しておられるような「品質に本当に真面目に取り組んでいる人々」からすると、生成AIというものは信用ならんし、なんなら嘘を吐くし、コードばかり量産してこっちはレビューばかりで疲れる、コードを書く楽しい部分を奪われた…… という感覚があるのかもしれない。
しかし私が見る限り(というかいろんな著名人も言ってるが)、このAIに何でも頼る流れは不可逆な変化なので、「生産性があがること」など一旦脇に置いておいてとにかく使いまくることを目的にするぐらいでいいのでは、ぐらいに考えている。
4月頃にChatGPTが生成できる画像と、そこに入る文字の精度が格段に向上したタイミングがあって、そのときにはAIに4コマ漫画を生成してもらって朝のミーティングのドキュメントにそれを投稿していた。毎朝ひと笑いが起こるのが妙に嬉しくて、結局30日間毎日作っていた。
AIを使って出てきたものそれ自体に楽しみを見出だせるとどんどん愛着が湧く。そういえば、「自分で作ったものにはより強い愛着が湧く」という、いわゆるIKEA効果というやつがある。もしかするとそれがキーなのかもしれない。
つまり、他のメンバーにもっとAIを使ってもらうということを考える時、まずは自分達が日々の業務で使うちょっとしたAI系ツールやAI向けコマンド、AIが読むためのデータセットなんかを作ってみてもらうのはどうだろう。
とにもかくにも、この新しい「オモチャ」を使い倒してみようではありませんか。