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エラー教を夢想しながら NEXUS を読む

重い腰を上げて、ハラリのNEXUSを読み始めている。
最近、「テクノロジーと思想を巡る小さな読書会」という会を那覇で主催しており、その時の種本として読んでいる。
※ この読書会についての話題は別の記事で取り扱おうと思う。

大体において、上下巻というので気が重くなる。上巻だけとりあえず買おうか、いや世界史の復習というよりもこれからの情報技術の潮流を読みたいなら下巻からでもいいか?などと悩みながら結局、この機会を逃すともう一度買う決断をするのが面倒くさくなるだろうと判断して2冊ともセットで買った。
そのほかに、ずっと読もうとお思ってた村上春樹の新刊『街と不確かな壁』も合わせて買った。これも例に漏れず上下巻だ。
家に帰って本棚に向かうと、そんな2セットの書籍を入れるだけのスペースなど無いことに気づく。古くてもう使わない学習系の書籍を整理しなくては。

以下、NEXUSという書籍自体の紹介というよりは、読んでて思ったことを中心に書く。

第1章: 情報とは何か?

まず冒頭、情報とは質量やエネルギーよりもさらに世界の基底にある、存在の根底となる構成原理なんだという考え方が徐々に受け入れられれつつある……らしいことが書かれている。

素朴な世界の見方をすると、粒子がまず宇宙にあって、粒子が運動し組み合わさってたまたま物質や地球ができて、そこにたまたま生命が生まれ、生命が「知性」を持って「情報」を生み出すようになったという風に捉えられる。いわゆる、古典的自然観というやつだろうか。この流れでは、情報は一番最後に生まれた副産物のような扱いになる。
しかし現在科学界で受け入れられつつあるアイデアにおいては、情報がまずある。そして情報が構造化されることでエネルギーや質量が生まれ、情報の複雑化・進化の結果として生命や知性が出現するということらしいのだ。

物理学における情報の根源性でいうと、例えば「情報を消去すると熱が発生する」というランダウアーの原理が思い浮かぶ。情報物理学の素養が無いと、この「情報はエネルギーと不可分である」という発想自体がそもそも持てない。
もしシミュレーション仮説について支持できたり、あるいは映画マトリックスシリーズを観てたりしてそんな世界観があり得ると思えるなら、あるいは上記のような考え方を身体的に理解できるかもしれないなとも思う。

……ちなみに本書ではその辺りには深く突っ込んでおらず、有名な伝書鳩であるシェール・アミの例を持ち出したりして、以下のような情報の基本的特性について述べている。

  • 情報とは現実を表そうとする試みである
  • 現実の最も忠実な説明でさえけっして現実を表せず、何らかの面が必ず無視される
  • 情報とは様々な点をつなげてネットワークにして、新しい現実を創り出す
  • 情報は現実を表示しているときもあれば、そうでないこともある。だが常に人や物事を結びつける

これらのことを念頭に置きながら、以降の内容を読み進めていくことになる。
あぁ、もうすでに気がMAXに重い。あとは流して書こう。

第2章: 物語

リスト(帳簿)は得てして退屈なもので、それに対して物語は容易に記憶できる。私たちの脳は神話や英雄譚を憶えることはできても、複雑な税制を暗記しておくことに適応していないということらしい。
確かにこの前、ふと思い立って円周率暗記100桁にチャレンジしたらできちゃったときも、頭の中では語呂合わせとストーリーで覚えていたものだ。人間の記憶が、ランダムなデータではなく意味(セマンティクス)の流れを捉える構造に最適化されてるというのはよく理解できる。

沖縄という小さな拠点でさえも、よくメンバーをアラインする難しさに直面する。そういう時に上手なリーダーは「ストーリー」を用いて仕事に情熱を吹き込むものだという。
組織が大きくなくても「何のためにやってるのか」が共有されないと人は動けない。チャットログやクラウドドキュメントに仕様が書いてあっても、それがどうして大事なのかが分からなければ「納得感」は生まれない。

仮に攻殻機動隊に登場するような外部記憶装置に脳がアクセスできるようになったとしても、結局は「なぜそれを思い出す必要があるのか」「それが自分の物語にどうつながるか」が重視されていくのだろう。

第3章: 文書

本書ではカフカ作品において、官僚制が主人公に与える脅威を描いている点について言及している。
この点について、私は村上春樹にも似たものを感じている。
巨悪に巻き取られそうになりながら、それに粘り強く静かに抗う勇気。それが村上作品に通底するテーマなんだと考えている。そこに出てくる非人間的な巨大構造という象徴はおそらく、本書でいう「官僚制」に相当するものだ。
カフカの場合はそこで無力さを抱えつつもなんとか逃れようとするのに対して、村上作品だと淡々と、しかし勇敢に異常に立ち向かっていくところが独特の読了感を産むのだが。

第4章: 誤り

中世で支配的だった不可謬性盛り盛りの宗教の時代から、自己修復能力を得た科学の時代への変遷を説明している。
この辺りでいえば例えば、『チ。- 地球の運動について -』を読んだりしても不可謬がもたらす愚かさを目の当たりにすることができるだろう。

ここで本書の内容から完全に逸れるのだが、思考実験として考えてみたい問いがある。それは、「可謬性を認める宗教」というものは本質的に存在可能かどうか、それが出現するとしたらどんな教義になるのだろうか、だ。

例えば、聖典がオープンソースになってて、信者によってアップデートされ続けるなんて宗教、今後あり得るんだろうか。
オープンソース宗教や、教義の中に自己批判の精神が奨励されるということも考えられるだろうが、一番面白いのは多分「誤り」自体を神聖視するような教義だろう。

  • 我らが神は誤る
  • 宇宙も自己修復中のエラーである
  • 原罪ならぬ「原エラー(Original Bug)」をすべての生命が抱えている

みたいなことになるんだろうか。ちょっと面白そうだ。エラー教、誰か創始してくれないだろうか。
おそらくそういうものは理論的に可能だが、既存の「宗教」の外見を捨て、宗教・哲学・民主主義・テクノロジーの中間にある新しい精神的インフラになるのかもしれない。

……などと、本当に取り留めもないことを考えてしまう。

第5章: 決定

情報ネットワークは民主主義だけでなく全体主義も生み出すことが説明されている。本質的にはどちらでもないという事実だ。インターネットが一時期「自由の旗手」として期待されたが、技術は使う者の意思によってどちらにも転ぶ。

最近、Plurality の実践に興味が出たこともあり、チームみらいのボランティアとしてオープンソースリポジトリにPRを出した。彼らを応援しいようと思えるのはやはり、政治の可謬性をおおっぴらに認めることができる極めて誠実な団体だと感じたからだ。

今後はそれぞれの国家がAIを活用した上で、Plurality の道に進むか監視と統制に突き進むか、その両極化が更に加速することが目に見えている。
AI という「圧倒的に柔軟で力強い道具」を手にしした今、「何を目指すか」がいよいよ問われていると感じる。私は Plurality の側に居たいと切に願う。


後半を読みたいがために、前半を凄い速度で斜め読みした。
情報革命により我々を取り巻く社会、ひいては世界がどうなっていってしまうのか。そういう話をしたくてたまらない。そんな場を作るために自ら読書会で人を集めている向きがある。が、今日のところは Chat GPT と話を深めるに留めておくしかない。