yoshiakist

どうせ死ぬから大丈夫

何かにつけてくよくよするたび、友人や先輩から「大丈夫、死ななければかすり傷。どうせ死ぬことは無いしなって思えばいいんだよ!」と慰められてきた。

そうじゃない。
「どうせ死ぬしな。」 ……これだ。そう考えたほうがすべてが楽になることに最近気が付いた。
「どうせ死ぬなら~~しよう。」 この考え方も強い。なんだか、もう何だってできる気がしてくる。

最近は、「どうせどの道死ぬんだから、せめてゲーム作ってから死ぬか」 みたいな感じで生きている。


哲学的には「メメント・モリ」 とか、あるいはハイデガーが「死を意識することで初めて本来的な生き方が可能になる」と言っていたりして、死があるからこそ生に意味が宿るんだと言っている人たちは古今東西にいる。

漫画で言えば『火の鳥』や『宝石の国』など、不死の存在が意味を失っていく話に思いを馳せればこそ、「死ねる存在だからこそ」と逆説的な思考法も可能ではある。
ギルガメシュ叙事詩なんかもそれを通底したテーマとして扱っていて、それはそれですごく分かる。

でも、私が言いたいことはそういう事ではないんだよな。何を私は言いたいのだろう。
生に意味を持たせる目的があってそういう考えをしているのではなく、これは諦めに近いのかもしれない。諦念。


そういえば仏教において諦(たい)はもともと、真理という意味だったと思う。四諦と書いて四つの真理。
日本語の「諦める」にはネガティブな響きがあるが、仏教ではものごとをありのままに明らかに見ることが「諦」で、それは敗北じゃなくて認識の話になる。

仏教に引っかかりを覚えたので、もう少し仏教と「死」について調べてみた。
「大死一番 絶後再蘇」、あるいは「大死大活」という禅語があるらしい。肉体の死によってではなく、あらゆるものを捨てきった境地に至って、初めて得られるものがある……と言われたりするんだそうだ。
心理的に死を通過することで、失うものがなくなって、逆に自由になるっていうことなんだろうか。


ただ全てを諦めて、だから自由だというならば、それはただの刹那快楽主義だ。あるいはニヒリズムだ。
快楽主義は、要は「死ぬ前に取れるだけ取ろう」ということ。そういうことではなく。

もう何やっても死ぬんだから、取ろうとすること自体やめた。そしたら何故か、ゲーム作りたいという気持ちだけ残った。
……こういう説明をすると、今の自分の気持ちにとても納得がいくのだ。